この記事は第4回総選挙の前夜に書かれています。衆議院でも参議院でもなくてAKB48の年に一度の恒例行事の話です。
AKB48が「売れている」と書くとその実体のなさを指摘する声が上がりそうですが、少なくとも3年前よりは今の方が売れている、これに異論を唱える人はいないでしょう。
件のプロデューサーが担当している彼女らの楽曲の歌詞はおおよそファンの心理を代弁するもの、否、正しく言えばファンのあるべき姿勢を指導する内容です。「キミに出会えた奇跡」とか「キミを遠くで見ている」とか、穿った見方をすれば「彼女らを応援できることをありがたく思いなさい。でも、絶対に手の届かない存在なんだから勘違いしないでね」とでも解釈できる内容です。何れにせよ、主語は常に「わたし」ではなく「ぼく」で、彼女らが自ら心情を吐露したり、何らかの意思を明示することは決してありません。
特定の誰かを支持するという行動はその対象となる人物の思想なりそれに基づいた行動を支持することに同じなのですが、彼女らは自らの思想を何一つも発信しはしませんし、何らか明確な意志に基づいた行動もありません。従って「カリスマ性」なども当然ながら皆無です。一個の球体の中に散在し緩やかな磁場を形成している、彼女らと彼女らのファンの関係はそんなイメージ、決して球体の中心に一個の核として彼女らが存在するイメージではありません。
少なくとも3年前よりは今の方が売れているとするならば、何処かに「転機」があったはずです。
彼女らは始めから何一つも物を言わない主体だったのかというと、実はそうではありません。「たかが女子高生」あるいは「わたしたち何をしても…」と、彼女らはその初期に於いて実は「わたしたち」を主語とした自分語り、否、少なくともそのアイコンに相応しい思想を発信していたのです。彼女らのシングル曲だけを時系列順に並べてみても、その変化は明らかであり、そして、その変化が丁度彼女らの「転機」に一致するのです。
彼女らもしくは彼女らを操る「何か」が果たしてカリスマを目指していたのかどうかなど知る由もありませんが、挫折したカリスマの変節が今に至る「成功」の足掛かりになったのは間違いのないところでしょう。
さて、実は品川ラズベリーで店舗責任者を務めさせていただいる私は勿論「俄かアイドル研究家」ではなくて、このような事例の中に職責を全うし得る何かを探り続ける一個の悲しげな主体に過ぎません。この場合、肝要なのはAKB48そのものを見るのではなくて、それを収めている器の方を見ることです。時代はカリスマを求めるのではなく緩やかな運命共同体を求めている、「今」を正しく見い出すことが成功への近道だということです。
あと数時間、今年の板野友美さんの順位は…。否、これは職責を離れてただ「そのもの」だけを見ている発言ですから。