「報道されていることと現実は違いますからね。」
東京の北、某F県から不定期に出勤してくれている女の子のお言葉。現実と乖離しているのは或る数値に関すること。彼女の近隣住民の多くはGM計数管を独自に持っているのだとか…。
テレビドラマ等の中で架空のニュース番組を流すときは「フレーム内フレーム」が要請されます。つまり、その架空のニュース番組を映すテレビ受像機の枠ごと画面内に収めなければいけないという決まりがあるわけです。これは視聴者の誤解を避けるための倫理規定の一つなのですが、ここで面白いのはフレームが虚構を約束するという原理です。
媒体を介するあらゆる情報はフレームに収まって届けられます。媒体を介しない情報、即ち私たちが直接自分の目で拾い集める情報にフレームが存在しないことと比較すればわかり易いのではないかと思います。「フレーム(=媒体)を介するあらゆる情報はフィクションである」という発想は些か情緒的が過ぎるのですが、しかし、例えば「あらゆるフレームは其処に内示される情報のフィクションの可能性を示唆している」ということならそれを否定する人はいないはずです。
パソコンのフレーム、ウエブブラウザのフレーム、写真そのもののフレーム、私たちの「商品」は幾重ものフレームの檻に閉じ込められることになります。彼女らを其処に押し込んでいるのは私たち店舗スタッフ、語弊の多い喩えのような気もしますが、それが私たちの重要な業務の一つでもあります。否、別に「嘘を嘘で塗り固めている」と告白したいわけではありません。名乗るタイミングをすっかり逸してしまいましたが私は品川ラズベリーで責任者を勤めさせていただいているものです。
如何に質の高いフィクションを構築するか、極力語弊の少ない表現を試みてみればそういうことでしょうか? それをフレームに収めた時点で、意識するしないに関わらず対象は一個のフィクションに堕してしまいます。肝要なのはその原理を心得ておくことです。フレームは無限に、限りない逸脱も容易な世界です。明確な倫理規定が存在しなければ、各人の「節度」に委ねるしかありません。案外と高次な倫理観を要請されるな、と、諸々の業務を通じて、そんなことを最近あらためて思いました。
さて、これをご覧いただいている皆様方、頭を少し後ろに下げて視野を広く持ってみて下さい。最低でも二つのフレームが其処に出現するはずです。パソコンのフレームとウエブブラウザのフレーム、私のこのテクストはそれらフレームの中に収められています。これがつまり、私にできる数少ないアドバイスの一つです。