私は昔からオモチャが大好きである。子供のオモチャではない。大人のオモチャだ。
っとここまで書いたところで、よく渋谷の裏通りなんかにこっそりある店で売っているピンク色や黒色をしたブルブルする「大人のおもちゃ」を想像してドキドキしてしまった貴方、残念!
ここでいう大人のオモチャとは趣味の世界のモノのことだ。ピンク色したいわゆる大人のおもちゃもある意味趣味の世界のモノ、と言えなくはないけど、ここではとりあえず違う。
例えば写真機。今は技術の進歩ゆえ次々と新しい機能を満載したカメラが市場に生み出されている。そんな新しくて機能満載のカメラが店頭に並ぶ中、一線を画した形で「わが道をゆく」カメラも存在している。今どきの便利な手ぶれ補正も素敵な加工をしてくれるフィルター機能なるものも搭載していない。あるのは「ただ撮る」機能のみ。
時間と空間、そして光を一枚の画に映しこむ、その機能だけを追及し、外観も地味で目を引く派手さがほとんどない。その上使い勝手がいま一つ時代遅れだったりもする。
けれどもその武骨さがなんとも愛らしく、地味で頑固なヤツ、こいつを手のひらで転がして「今日はいい仕事してくれるかな」なんて会話したりしながらいじりまわす、そんな感じがとても心地良いのだ。
ああ、そういえば昔使っていたマッキントッシュがちょっとそんな感じだったっけ。
すぐ機嫌を損ねたり、固まっちゃったり、だましだまし使う楽しさ。そんな感じか。
アンティークのフィルムカメラもよく手入れされたものから、物置の中から発掘されただけのようなものまで今ではネットを通して数多く見ることができる。インターネットで眺めていると本当に時間の経つのを忘れてしまう。あのゴツゴツしたダイヤル、錆びかけの鈍い光を放つボディ。これらがたまらなく美しい。
このカメラは今ここでこうやって存在する以前、いったいどんな道のりを経てここまできたのだろう。どんな人がどんなふうにこの機械に手を触れてきたのか。もしかしたら激しい戦火を命からがら逃げ伸びてきたのかも知れない。人の誕生や、あるいは死の場面をも誰かの為に切り取って残してきたのかも知れないのだ。ひょっとしたら、手にすると呪いがかかってしまう怖いカメラかもしれない。
なぁんて果てしない空想が飛び交う。
カメラのことばかり書いてしまったが、少し前には飛び出す絵本にはまっていた。飛び出す絵本といっても昔見たようなウルトラマンや怪獣が飛び出す類のものではない。精密に計算しつくされた小さな紙のパーツが複雑に折り重なり組み上げられた様は正に芸術品だ。カラフルな可愛らしいものから、超リアルに立体を再現したもの、無彩色でシンプルにまとめられたものまで実に様々。
何度繰り返して眺めてもわくわくして楽しい気分になってくる。こんなに素晴らしい作品なのだから、断じて子供のおもちゃなどではない。大人のおもちゃなのだ。
これらの愛すべき大人のおもちゃたち、きっとこれからもずっと時代を超えて愛され続けていくのだろう。そしていつか自分も、地味で目立たずとも隅のほうでじっと光を放ち続けているようなそんな「渋い骨董品」みたいになれたらと願うのである。
愛すべきモノたち