人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企することを意識するものである。(『実存主義とは何か』J=P・サルトル)
現代思想史的に言えば、サルトルの実存主義哲学に於けるこの「主体性」や「自由」のロジックはレヴィ・ストロースら構造主義者たちによって一網打尽にされ、今どきこれをありがたがる知識人など皆無に等しいというのが現実でしょう。それでも、私はサルトルが嘗て唱えた人間存在に関わる幾つかの事柄は十分に意義のあるものだと考えています。申し遅れましたが、私は品川ラズベリーで責任者を勤めさせていただいているものです。
サルトルの実存主義哲学を簡単に説明すれば「実存は本質に先立つ」というそれになります。つまり、人間存在は実存が先にあり、その本質は後から生じるものであるということです。あらゆる道具の類、例えば、ボールペンはその本質(用途や意味)が先にあって、その本質に基づいて工場で生産される(実存が生じる)わけですが、人間存在の場合は、その実存に先立つ本質など何もないということです。
冒頭の引用はつまり、人間とはその実存を未来に向けて常に自らが投げるものであり、決して何らかの外的要因に促されて未来に向かうものではない、まあ、要は未来は常に白紙で、その白紙の未来に自ら裸で飛び込むのが人間であるということです。そして「私は何者であるのか?」という本質はその投げ出された白紙の未来の中で自らが形作っていくものであり、決して「何者であるべき」という予定調和に促されたりなどしないのです。さらに言えば「私は○○であるべきだから××になる」という世間一般にありがちなそれは、本来的に自由な存在である(予め本質を持たない)人間がその自由を恐れて自らを何かの型に嵌めようとしている、要は「言訳」に過ぎないということです。サルトルはそれをこう表現しています。
人間は自由の刑に処せられている。
さて、此処に在るのは、今これをご覧いただいている皆様方が自らを投企する「未来」の一部分、選択肢の一つです。私たちはこの「未来」に於いて「何をすべき」あるいは「如何にあるべき」などと言うつもりはありません。それは皆様方の自由、私たちはその本質を培う「未来」の選択肢の一つを此処に提示しているに過ぎません。一つ言えることがあるとすれば、この「未来」に於いて皆様方は何者にでもなり得るということ、そして、それを選択するのは他でもない皆様方自身ということです。
シンデレラグループでは投企すべき「未来」を模索する皆様方の勇気ある「選択」を心よりお待ちしております。