教育論の古典『エミール』の著者ルソーが、その実生活では子供を捨てて孤児院送りにするロクでもない父親だったというのは有名な話です。では、そのような人間が書いた教育論に果たして価値などあるのか? 「価値がない」と考える人は些か情緒に走りがち、価値は勿論あります。例えばこれを「殺人者が解いた物理学の理論」にでも置き換えてみれば、その理由は容易に知れるはずです。そこに記された言説の普遍的な意義や価値は、それを「どのような人物」が記したかになど決して左右されないのです。尤も、「お前が言うな!」という突っ込みは大いにアリ、そんな人間などとても信用できないという情緒的人物論とはまた別問題です。毎度「お前が言うな!」の突っ込みを予期しつつ何度目かの投稿をさせていただく私は品川ラズベリーで責任者を勤めさせていただいている者です。
ちなみに、現実の教育現場に於いては、情緒的人物論は大いに有効です。例えば、シンデレラグループでは社員教育の一環として「業務習得表」という単なるマニュアルに留まらない素晴らしい教育プログラムを運用しているのですが、上述の通り、これをどのような人物が作成したのかなどその価値とはまるで無関係、しかし、それを運用する人間はその資質を問われてしまうのです。そのプログラムを運用する人物がルソーのような人間では、それこそ「お前が言うな!」と突っ込まれてしまうだけ、当然ながら有効な教育などあり得ません。この「業務習得表」とその運用方法の素晴らしさの一つは、それを介して部下や後輩を評価、指導する際に己の資質もまた見直せることに、或る項目では「アナタはもっと××すべきである」などと偉そうな物言いをしつつも、内心では「お前が言うな!」と突っ込んでいたりすることも屡々、そんな自戒と反省の契機が私自身を助けていてくれてもいるのです。
さて、シンデレラグループが運用する素晴らしい教育プログラムの話はひとまず措くとして、話を『エミール』に戻せば、ルソーの教育論は一般に「消極教育」と評されています。子供の教育に際しては人為は最低限にとどめその多くを自然に任せなさい、と、簡単に言えばそんなところです。例えば、子供が窓ガラスを割ってしまった場合、それを叱るのではなく、何も言わずにその状態を放置しておき、外から吹き込む冷たい風でその子供に寒い思いを実際にさせる、そうすることによって子供自身に現象の因果関係を悟らせ、延いては「窓ガラスを割るのは悪いことである」と学習させるわけです。
実は、私はルソーのこの消極教育に影響を受けているところがあって、似たようなことを職場で再現していたりもします。例えば、電話番の仕事に少し慣れてきたスタッフはまず電話予約は「入る」ものではなく「取る」ものであることを自然と学習し、次に「どうすれば予約を取りやすいのか」を自分なりに考えるようになります。多くのお客様は「待つ」ことを嫌います。目当ての女の子にすぐに入りたい、そんなお客様が多いのです。しかし、その女の子に人気があればあるほどお客様を待たせなくては予約が成立しないという状況が生じてしまいます。そのような状況下に於いて、功を焦った新人電話番は「案内可能な時刻を実際より少し早めに申告しておけば予約は取りやすい」と考えます。大して待たない思えばお客様も予約を入れてくれますから、それで予約を「取る」ことができるようになります。新人電話番は面白いようにこの「過ち」を再現してくれます。しかし、私は敢えてこの「過ち」を放置します。何故なら、このようなやり方で取った予約の多くがキャンセルの憂き目に遭うことを知っているからです。お客様に不快な思いをさせ、ドライバースタッフや女の子に無駄な手間を取らせてしまう、そんな現実の損失から彼らに「過ち」を認識させ改めさせる、単に私が物事の因果関係を言葉で説くよりも遥かに教育効果があり、実際、彼らはその後決してそのような予約の取り方はしなくなります。勿論、そんな損失が生じたときのお客様や女の子へのフォローは私の仕事、これがナカナカ大変なのですが、そこで得たスタッフの成長の代価と思えば、そんなのは小さな苦労に過ぎません。まあ、モノの序でに、ここぞとばかりに「お客様をどれだけ待たせることができるか、電話番の技量が試されるのはそこですよ」なんて格好いいことを説いてみたりもするわけですが…。
何れにせよ、私が実践しているつもりのこの消極教育が、この場合本当に正しいのかどうかは私自身にもまだ分かりません。利益追求を目的とした営業活動の中でこれを実践することのリスクの大きさに思いを至らせれば、途端に自信を喪失してもしまいます。あるいは、過ちをすぐに指摘しないのはただ単に私の性格が悪いだけなのではないかとも…。ともあれ、そんなことをあれやこれや考えてみたわけです、数時間前に、「業務習得表」で自分に突っ込みを入れながら。そんな試行錯誤の毎日です。
ガラスを割る大人たちと