横浜の伝説の白塗り娼婦・ヨコハマメリーさんをご存じですか?
ヨコハマメリーさんは、74歳まで横浜・伊勢佐木町の街角に40年近くにわたって立ち続け、伝説の娼婦と謳われた街娼です。
昨年12月、ノンフィクション作家・檀原照和氏の文庫本『白い孤影 ヨコハマメリー』(ちくま文庫)が出版されて話題となりました。
また、同年10月8日放送されたバラエティ番組『かたせ梨乃が進駐軍の前で踊り狂った時代…とマツコ』(日本テレビ)でも彼女の生きざまが紹介されるなど、様々なメディアに取り上げられてふたたび注目を浴びています。
日本で最も有名な娼婦といっても過言ではないヨコハマメリーさん。横浜を愛し、愛されてきた彼女はどんな半生を送ってきたのでしょうか……その生い立ちや人となりを紹介します。
人気歌謡曲にもたびたび登場したヨコハマメリー
亜麻色に髪そめて
淋しい時にマリー よく笑う
うそがないからマリー
ひとりぼっち
~中略~
愛がないからマリー
抱かれるの
自分の心マリー
変えたくて
(『横浜マリー』1982年JASRAC 1605250-601)
横浜出身のフォークデュオ「ダ・カーポ」の歌に、ヨコハマメリーさんを歌った作品があります。
娼婦という日陰の存在でありながらポピュラー歌謡曲に登場するほど、ヨコハマメリーさんは人々に慕われてきた存在でした。
顔を真っ白に塗りたくった、前衛舞踏家を思わせるメイク。フリルの付いた派手な純白ドレスで街角に立つ姿は、いつしか横浜の風物詩になっていたのです。
ヨコハマさんが登場する歌謡曲は他にもたくさんあります。ざっと挙げると、淡谷のり子が歌った『昨夜(ゆうべ)の男』(1982年)、石黒ケイが歌った『港のマリア』(1982年)……etc .
これらの曲が作られたのは80年代前半。この時、彼女はすでに60歳を超えていました。
その奇異ないでたちが話題となり、当時の週刊誌などにたびたび取り上げられたヨコハマメリーさん。すでにポップアイコンであったことが伺えます。
白塗りの秘密とヨコハマメリーが横浜に立ち続けた理由
“ヨコハマメリー”という通り名は彼女が自ら名乗ったのではないとされています。
街に立ち続ける姿に、いつしか誰ともなくそう呼ぶようになったのだとか。
ヨコハマメリーさんは、どんな半生を送ってきたのでしょうか?
彼女は1921年(大正10年)、岡山県の農家に女4人、男4人の兄弟姉妹の長女として生まれました。
のちに彼女の実弟が語ったところによれば、地元の小学校高等科を出たものの貧しさのため中学に進学できず、青年学校に進んで卒業したそうです。
卒業後は地元の国鉄職員と結婚。太平洋戦争が始まると、軍需工場で働くようになりました。
この頃のエピソードに、彼女の性格の一端が伺える話があります。
軍需工場で勤労奉仕を始めたメリーさんでしたが、職場の人間関係を苦に自殺未遂を起こしてしまったのです。それほど繊細な神経の持ち主だったということなのでしょう。
この騒動がきっかけとなり、結婚生活はわずか2年で破たんしてしまいました。
やがて終戦を迎えると、彼女は兵庫県・西宮の料亭で仲居として女中奉公を始めます。そこは表向きには料亭でしたが、実際は進駐軍相手の慰安所でした。
こうしてパンパンとなった彼女はある米軍将校と恋に落ち、特定の相手と専属愛人契約を結ぶ“オンリー”となります。この将校は、彼女にとって運命の男性でした。
将校の転勤が決まると、彼女も一緒に故郷を出ました。しかし、ロマンスは長くは続きませんでした。朝鮮戦争を勃発すると、将校は現地に駆り出されてしまったのです。
「必ず帰って迎えにくる」
将校はそう言い残し、戦地へ赴きました。
その言葉を信じた彼女は、当時、朝鮮戦争景気に湧いていた横須賀に渡ったと言われています。
そしてレースの純白ドレス、白いパラソルに扇、羽飾りのついた帽子という派手な出で立ちで横須賀の街に立つようになりました。
異様な格好で、GI(アメリカ兵)相手にドブ板通りに立つ彼女。しかし、兵隊には目もくれず、将校ばかりを追っていたとか。
“オンリーさん”ゆえのプライドだったのでしょうか。その貴婦人のような姿から、いつしか彼女は「皇后陛下」「きらきらさん」のあだ名で呼ばれるようになりました。没落した宮家の末裔――世間のそんな噂も利用し、将校を引っ掛けていたようです。
外国船が寄港する波止場で、白いパラソルを手に将校の帰りを待ち続けたヨコハマメリーさん。しかし、将校は二度と戻ってくることはありませんでした。一説には、朝鮮戦争が終結すると故郷のアメリカにそのまま帰国したと囁かれています。
そんな彼女が横浜・伊勢佐木町に流れ着いたのは1961年、40歳の時と言われています(1950年代にはすでに伊勢佐木町に出没していたという説もあります)。
その頃、伊勢佐木町に『根岸家』という大衆酒場がありました。映画『天国と地獄』(監督:黒澤明)の舞台にもなった店です。
ここは米兵や愚連隊が集い、パンパンを引っ掛ける場所でもありました。しかし、ヨコハマメリーさんは仲間たちから敬遠される存在だったそうです。
当時の客のこんな証言があります。
出典:はまれぽ.com
化粧の話は眉つばですが、女の意地を感じさせるエピソードです。
あのトレードマークの白塗りメイクをするようになったのは、次第にお金がなくなり、化粧品を買えなくなった彼女を見かねた化粧品店『柳屋』の女将が、安上がりな舞台用のおしろいを教えてあげたことがきっかけだったとか。
ヨコハマメリーさんはいつも同じおしろいを買った後、「サンキュ(Thanks You)」とニコッと笑って帰っていったと言います。
彼女のメイクについて、ヨコハマメリーさんに関するノンフィクションも著している作家・山崎洋子さんは「あの白塗りの化粧は、彼女がメリーであるための仮面のようなものだった」と語っています。あれは塗っているのではなく、素顔を消していると言うのです。けだし至言でしょう。
客がつかなくなると、やむなく日本人客も取るようになりました。しかし、誰でもよかったわけではなく、眼鏡を掛けて身なりがきちんとした恰幅のいい男性しか相手にしませんでした。
ヨコハマメリーさんがこのような男性を好んだのは、お金持ちに見えたから。当時、メリーさんに声を掛けられた客は“男としてハクが上がる”“「運がつく」”とも噂されていたとか。
彼女と遊んだ経験があるという男性の証言が残っています。
その日、ヨコハマメリーさんは横浜・曙町に立っていたそうです。当時の彼女の年齢は推定72歳。
「お兄さん、遊んでいかない」と声を掛けてきたというメリーさん。男性が「一万円しかない」と断るといったん諦めましたが、すぐに追いかけてきて「一万円でいいわよ」と応じたそうです。
割と筋肉質だったのを覚えています。お腹も垂れていませんでした。」
ちなみに、男性の話では、ヨコハマメリーさんと寝たことで運気が上がった覚えはないとか。
ヨコハマメリーさんは、80年代に入ると『横浜名物白装束おばさん』などと週刊誌に取り上げられて有名になりました。
しかし、彼女の独特な姿を薄気味悪いと感じる人もいたようです。特に、日本中をエイズパニックが駆け巡った80年代後半には、いわれのない偏見から迫害されることも多かったと言います。
当時、メリーさんの行きつけだった美容院では「(彼女の髪を切ったハサミから)エイズをうつされる」とクレームが巻き起こり、客が激減。店主がやむを得ず彼女を出禁にしたという話もあります。
有名になるほどに、いじめも受けるようになりました。
ヨコハマメリーさんはいつも家財道具一式をバッグに入れて持ち歩いていましたが、それは一度、何者かに全財産を盗まれてしまったからなのだとか。
また、同業者に襲われたり、酔っ払いからすれ違いざまに蹴られたりすることもあったと言います。
そんな彼女に救いの手を差し伸べてくれる人もいました。
例えば、伊勢佐木町に店舗を構えていたジュエリーショップ『アート宝飾』の店主。ショーウインドウを眺めるのが好きなヨコハマメリーさんを気遣い、店の前のベンチで休む彼女を何も言わず放っておいてくれたそうです。
ヨコハマメリーさんは、店主にお歳暮を毎年欠かさなかったとか。彼女にはそんな義理がたい一面もありました。
また、彼女のために何とか住居を用意できないかと役所に掛けあった人もいたようです。しかし、住民票が取得できないとの理由でそれは叶いませんでした。
晩年はほとんどホームレスのような生活を送っていたヨコハマメリーさんでしたが、プライドが高い彼女は周囲に施しを乞うことを嫌っていたようです。よほど親しくなった人でない限り、援助を受け付けることはありませんでした。
しかし、その精神力とは裏腹に、長年無理を続けてきた肉体には限界がきていました。
1995年冬、ヨコハマメリーさんは横浜を去り、故郷の岡山へ戻る決心をします。彼女の体調を心配したクリーニング店の女主人が、新幹線の切符を手配してあげたそうです。ヨコハマメリーさんは、新幹線に乗る際も決して白塗りは崩さなかったと言います。
岡山に戻った彼女は、老人ホームに入り余生を送りました。毎日好きな絵を描きながら、穏やかに暮らしたようです。
そして2005年1月17日、心臓発作を起こし、静かに息を引き取りました。
享年、84歳。
伝説の娼婦と言われたヨコハマメリーさんは、こうして激動の人生に幕を下ろしたのです。
彼女は、なぜ横浜の街に立ち続けたのでしょうか?
「メリーさんは別れてしまったアメリカ人の将校を待ち続けるために、それと分かるように白装束の姿で街角に立ち続けているんだよ」
街の人々はそんな風に噂します。
それは真実かも知れないし、単なる寓話に過ぎないのかもしれません。
しかし、彼女は確かにそこに実在しました。
ヨコハマメリーさんの姿が街から消えた今も、伝説は語り継がれて今も人々の記憶に息づいています。
様々なメディアで愛され続けているヨコハマメリーさん
ヨコハマメリーさんが亡くなってから15年の歳月が経ちますが、彼女は今も人々の脳裏に生き続けています。
歌謡曲に歌い継がれているだけでなく、書籍や映画、舞台など様々な作品に取り上げられ、娼婦という存在を超えた人気を集めているのです。
ここでは、ヨコハマメリーさんを題材にしたメディアから代表的なものをご紹介します。
・映画『ヨコハマメリー』2006年公開 監督:中村高寛
5年の歳月をかけ、多くの関係者の証言からメリーさんの実像に迫ったドキュメンタリー。タレントのミッキー安川氏、SM小説家の団鬼六氏、風俗ライターの広岡敬一氏などの著名人も出演しています。
・舞台『横浜ローザ』1996年初演
上述の『ヨコハマメリー』にも出演している女優・五大路子さんによるひとり芝居。ヨコハマメリーさんとの出会いに感銘を受け、1996年の初演以来23年間、作品を演じ続けています。
・森日出夫写真集『PASS ハマのメリーさん』1995年発売(壮神社・刊)
写真家・森日出夫氏が1993年から撮り続けたヨコハマメリーさんの写真をまとめた貴重な写真集。
・『天使はブルースを歌う―横浜アウトサイド・ストーリー』1999年10月発売(山崎洋子・著/毎日新聞社・刊)
白塗りの孤高の娼婦「港のメリー」。「GIベイビー」と呼ばれた混血児たち……ブルースの街・横浜の光と影を描く書き下ろしノンフィクション。
・『白い顔の伝説を求めて』2010年8月発売(五大路子・著/壮神社・刊)
『横浜ローザ』をひとり芝居で演じた著者による旅の記録。森日出夫氏が写真を提供しています。
・『ヨコハマメリー:かつて白化粧の老娼婦がいた』2017年8月発売(中村高寛・著/河出書房新社・刊)
ドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』を監督した中村高寛氏が上梓。
ヨコハマメリーさんだけでなく、幕末以降の横浜に息づいた娼婦たちの記録を掘り起こした渾身のノンフィクションです。
・『白い孤影 ヨコハマメリー』2018年12月発売(檀原照和・著/ちくま文庫・刊)
ノンフィクション作家の檀原照和氏が20年以上にもわたる長期取材を積み重ねて、ハマっ子の記憶に残るヨコハマメリーさんを活写した異色ルポルタージュ。文庫オリジナルです。
ドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』レビュー~メリーさんとその真実の姿~
ヨコハマメリーさんを描いた作品群では、映画『ヨコハマメリー』が有名でしょう。生きた彼女を映像に記録した、お宝級のドキュメンタリーです。
また、ヨコハマメリーさんと関わった人たちの貴重なエピソードも多数登場します。
そんな『ヨコハマメリー』の登場人物の中でも、特に重要な役割を果たしているのがシャンソン歌手の永登元次郎(ながと・がんじろう)さんです。
永登元次郎さんは、長年にわたってヨコハマメリーさんを何かと手助けした人物です。
二人の交流は、永登さんがヨコハマメリーさんにリサイタルの招待券を贈ったことから始まりました。
リサイタル当日、アンコールで彼にプレゼントを手渡すヨコハマメリーさんの姿が映像に残っています(『ヨコハマメリー』にも収録されています)。固い握手を交わし、何度も頭を下げてあいさつする彼女の姿が印象的です。
永登さんは、かつて川崎・堀之内で男娼をしていたこともある元ゲイボーイ。そんな彼だからこそ、きっとヨコハマメリーさんも心を許したのでしょう。
ただ、ヨコハマメリーさんは永登さんからも施しを受けるのを嫌ったとか。そんな彼女のために、永登さんは「お花代」などの名目でさりげなく金銭を渡し、援助していました。
映画が撮影された当時、永登さんは末期ガンを患っていました。故郷に去ったヨコハマメリーさんの思い出をカメラの前で語るうち、彼の胸にある衝動が湧き上がります。
もう一度メリーさんに会いたい、そして彼女の前で歌いたい
映画のラスト、永登さんは岡山の老人ホームを慰問に訪れ、その思いを果たします。
大勢の老人に交じって観客席に座り、ステージにまなざしを注ぐヨコハマメリーメリーさん……
いや、そこにはいたのは「ヨメリー」の名を捨て、今は本名で暮らしている彼女。映像に映し出されていたのは、永登さんの熱唱を見つめる一人の老婆の姿でした。
白塗りではない彼女の素顔。ヨコハマメリーという仮面を脱ぎ捨てたその横顔には、はっと息を飲むような美しさと気品が感じられます。
気位が高かったと言われるヨコハマメリーさん。顔こそ白塗りの“仮面”で隠していましたが、その気性は案外、素の姿だったのかしれません。
『ヨコハマメリー』には、その他にも貴重な肉声がたくさん登場します。
この記事の本文中にも登場する『柳屋』の女将・福長恵美子さん、ヨコハマメリーさんの帰郷を手助けしたクリーニング屋の女主人、『根岸家』の関係者……etc.ヨコハマメリーさんが横浜の街に溶け込み、愛されていたのかが改めてよくわかります。
中でも、『柳屋』の女将さんが語った話は印象的です。
ある日、一人で淋しそうにしていたヨコハマメリーさんをお茶に誘ったら断られてしまったそうです。
女将さんはその夜、旦那に「メリーさんって変わった人だね」と事の顛末を話しました。すると、旦那からこう叱られてしまったのだとか。
「それはメリーさんの善意だよ。自分と一緒にいるところを見られて、お前まで周囲からそういう職業だと思われたらいけないと――」
ヨコハマメリーさんの性格を考えると、納得できるエピソードです。
註:永登元次郎さんは2004年3月12日にこの世を去っています。
まとめ:ヨコハマメリーさんの生きた時代
五社英雄監督が戦後のパンパンたちを描いた映画『肉体の門』(1998年公開)。その中で、かたせ梨乃さん演じるパンパンが日本人の帰国兵にこう詰め寄るシーンがあります。
「勝手に戦争したのは誰だ? 勝手に負けたのは誰だ? てめぇ達、男のせいじゃないのかよ。誰が好き好んでパンパンやってんじゃねぇや!」
時代に翻弄されながらも自分の肉体ひとつで生き抜いた女たち、それがパンパンでした。
ヨコハマメリーさんも、そんな女性の一人だったのかもしれません。
かつて、日本にはパンパンと呼ばれる女性たちが生きた時代があった。その事実を決して忘れてはならないでしょう。